変容


あの山を登ったからといって、それ以降の何かが急激に変わったという訳でもなく。

ただ生きているだけで時間は経過して、それに伴うように日々の生活も流れてゆく。

以前のように仕事で山を登り、それを終えたら自宅に帰る。

たただそれだけのこと、だったのだが。

 

その日の夜だけは普段とは異なる現象があった。

 

アパートの1階にある角の部屋。そこは一ノ倉勝のものだったが、

その扉の前に人が立っていた。

それも、成人男性の平均よりも大きな体格を持つ一ノ倉よりも高い身長の、女。

彼女はきょろきょろと周囲を見回し、時折腕時計を見る。明らかにその部屋に

帰って来るであろう主を待っている様子だった。

 

その人物には見覚えがあった。例の登山隊に参加していた登山家の中でも

その背丈のお陰で一際目立っていただけでなく、気が弱く下手に出る話し方を

するかと思いきや急に強気に出る事もある、妙な雑誌記者だった。

 

一ノ倉が彼女を視界に捉えてから、どう動くべきか数秒足を止めている間に、

彼女の方から気付かれ距離を詰められてしまった。

 

「あっ一ノ倉さん!お久しぶりです。あの…覚えてますか?一緒に山に登った、小森です」

「何の用だ。取材なら断る」

「違います!私もう雑誌記者辞めてますし…これも、ただのぬいぐるみですから大丈夫ですよ!」

 

手のひら大のぬいぐるみを目の前に見せつける小森の手を、一ノ倉はぐいと押し退ける。

 

「俺に何の用だと聞いている」

「あ、そうそう、それなんですけど…」

 

わざわざ自宅まで来るとは余程の事なのだろうか。しかし、そもそも彼女は

どうやってここまで来たのか。自宅の住所など、彼女はもちろん

あの登山隊の誰にも教えた覚えは無い。

小森がスマホを取り出し何かを確認している間、一ノ倉は思考を巡らせた。

 

「一ノ倉さん、カレー食べませんか?」

 

「………は?」

 

何故ここでカレー。

急に飛び出して来た単語に一ノ倉は面食らった。

 

「その、第三次登山隊のみんなで打ち上げしようってなりまして。

それで…なんか、カレー食べたいねって話になったので…」

 

どこがどうしてそうなるのか。まさかあの時の当て付けかと彼は眉間に皺を寄せた。

彼女曰く、他の登山家達とは病院で連絡先を交換していたが、一ノ倉だけは

いつの間にか黙って退院していたので連絡先聞きそびれた為に、

様々なツテを頼り調べ上げここまで来たと言う。

 

「もう本当に大変で…アパートの部屋番号までは分からなかったから

どこで待ち伏せしてようかと思ったけど、よく考えたら表札があるから

そこまで分からなくても大丈夫でした」

 

どういう調べ方をすれば個人情報まで辿り着くのか、という疑問はひとまず

考えない様にして、一ノ倉は質問の答えを返した。

 

「行くと思ったのか。俺が、打ち上げとやらに」

 

それを聞いた小森は、眉をハの字にして笑う。

 

「思ってなかったですけど…私が一ノ倉さんの口からお返事が聞きたかっただけです」

 

「…それだけで、か?」

 

それだけの為に、苦労してこんな所までやって来たと言うのか。

小森は迷いなく「はい」と答えた。

 

「……手間を、かけさせたな」

「いえ、私がしたくてやっただけなので…あと、それだけじゃなくて」

 

小森が肩にかけていた鞄の中から取り出したのは、先程見たような形の

クマのぬいぐるみだった。

よく見ると顔が違うのと、服を着ていた。その服はまるで、登山ウェアのようだった。

 

「これを渡したくて。私が作った、これからも無事に山に登れますようにっていう

お守りみたいなものです」

「…」

 

当然、一ノ倉にはこの年齢になってぬいぐるみを持つような趣味も経験も興味すらも無い。

しかし、手間をかけさせたと言ってしまったこの流れで受け取りを

拒否することは困難であった。

手にしたそれは想像に違わず、布と綿で出来た柔らかな質感だった。

 

「あ、人の念がこもった人形とかぬいぐるみって、捨てると色々あるらしいですよ…

戻って来たりとか…」

 

「……」

 

まさか受け取らざるを得ないよう誘導していたのか?と少しばかり疑惑の念を持ちつつも、

ぬいぐるみはウェアのポケットの内にしまった。

 

「それじゃあ、渡すものも渡したので…そろそろ失礼します。

今日はありがとうございました。どうかお元気で!」

 

高い頭を下げて一礼した彼女は、一ノ倉に屈託のない笑顔を見せたのち、

アパートに背を向けて夜の路地へと消えて行った。

 

「…何だったんだ…」

 

一ノ倉の立つそこは普段と変わらぬ自宅の前の筈だったが、

しんと静まり返っただけで、どこか何かが変わってしまったような気がしていた。

 

 

 

 

「い、一ノ倉さーん!!!」

背後から名を呼ぶ声に思わず振り向くと、

こちらに向かって走って来る背の高い女の姿が見えた。

 

「え、駅って…どっちでしたっけ…!?」

 

「………」

 

よくもそんな方向感覚であの山を登れたものだ。

観念したようにため息をつくと、一ノ倉は自宅に背を向け彼女の方へと歩いて行った。

 

「あのう、一ノ倉さん…」

「…駅まで送ろう」

「え!?あ、ありがとうございます!」