不思議と風は止んでいた。
眼下には今まで登って来た山脈と、雲海が遥か彼方まで広がっている。
頂を踏みしめた彼女は、すぅ、と冷たい空気を肺の深くまで吸い込んで
「とーちゃーく!」
と大きな声を上げた。
両手をバンザイの形で掲げて、全身で喜びを表していた彼女の後ろから、
もう1人も頂きに足を置く。
「登ったぁ〜!!」
険しいクライミングの緊張から解放され、登頂の達成感から頬が緩んだ2人は、
自然と顔を見合わせて笑顔を溢した。
「おつかれ〜香澄ちゃん」
「べるちゃんも、おつかれさま」
*
2人で写真を撮り、「ヤッホー!」とこだまを響かせ、
ひとしきり登頂の喜びを噛み締めた後。
座り心地の良さそうな岩場にべるのは腰を下ろし、目の前に広がる景色を
ぼんやりと眺めていた。
そこへマグカップを二つ持った香澄が歩いて来る。
「はい、べるちゃん専用スペシャルブレンドコーヒー」
「ありがとぉ」
差し出されたそれをべるのは受け取る。何も言わずとも、
カップの中には砂糖が山盛りになっている。
べるのがコーヒーと呼べるのか分からない甘味の塊を味わう隣で、香澄も
自分のコーヒーを口にする。これは砂糖2杯とミルク1杯のみである。
「やっぱり山の頂上で飲むコーヒーは格別ですなぁ」
「そうだね。ここまで来れて、本当に良かった」
「ほんとだねぇ」
2人の声以外に聞こえて来るのは、穏やかに吹く風の音だけ。
会話がなくなると、すぐに静寂がやって来て2人を包む。しかしそれも、
べるのにとっては苦痛などではなく、心地良かった。
それは香澄にとっても同じだとべるのは思っていたが、香澄が不意に
カップを地に置いて、口を開く。
「ねぇ、べるちゃん」
「なに?」
「私ね、べるちゃんのことが大好き。べるちゃんは、私の大切な親友だよ」
唐突な言葉にべるのはぱちくりと瞬きをしてから「えと、わ、わたしも…」と
返す言葉を必死に探す。
しかしそれを待たずに香澄は続ける。広大な山脈を見つめながら。
「だから、本当ならあんなこと書くべきじゃなかったの。
べるちゃんに危ない目に遭ってほしくない、死んでほしくない、そう思ってるなら、
ここは危険な山だから登らないでって書かなきゃいけなかった」
べるのは口を閉じ、隣にいる泣き出しそうな横顔を見つめていた。
「だけど、私…どうしても悔しくて…このまま終わるなんて…そう思ったら、
私の代わりにべるちゃんに頂上まで登ってほしいって、書かずにはいられなかった。
ダメだって分かってるのに、自分のワガママを押し付けずにはいられなかった」
ごめんなさい、という小さな言葉と涙が彼女から溢れる。
手の中で冷めたカップを置き、べるのは彼女の名前を呼ぶ。
「…香澄ちゃん」
名前を呼ばれても、彼女は顔を向けることが出来ない。
それでもべるのは言葉を紡いだ。
「わたし、嬉しかったよ。香澄にとってはワガママの押し付けだったかもしれないけど…
わたしにとっては、香澄ちゃんの夢を託してもらえたと思ったから」
涙に濡れた顔がゆっくりと向く。べるのは目を細めて微笑んだ。
「ありがとう、香澄ちゃん。あなたのお陰で、わたしは最高の登山家になれたんだよ」
*
「香澄ちゃん、いつまで一緒に居てくれるの?」
「べるちゃんが起きるまで、かな」
「そっか…明日も登山する予定だったんだけど、寝坊しそうだなぁ」
「誰かと行くの?だったら寝坊しちゃダメだよ」
「だよねぇ。でも…もうちょっとだけ一緒に居させて」
「うん。私もべるちゃんと居たいな」